第8回勉強会を終えて

こんばんは、みちちです。

先日は皆さんお疲れ様でした。開始時間ちょうどにF井さんと2人で北和室につくとまだ誰も着ていない状態。今日は少人数での勉強会になるかもしれませんねーなんて話をしていました。しかし輪読開始直後からどんどん人が増えていき、用意した資料も予備がなくなりかけるほどでした。また、この日はレギュラーメンバー以外にゲストでH本さんという非常に高いレベルで教義を学んでおられる方も遅れて参加してくださいました。しかもH本さんは私の勤めています寺の報恩講に来ていただいている組内法中の方です、世の中狭いもんですね。

そんなメンバーの中で発表させて頂いた訳ですが、研修院で私と同じ班になった方はご存知かと思いますが、基本資料がやっつけ仕事です。今回も2枚の資料のうち半分がコピペという仕上がりでした。有名な先生の講義禄でも引用してこれたらいいんですが、普段勉強していない(できない)私は宮城先生の言葉のなかでも理解しやすかったところを、自分の体験を例にあげて説明する方法で発表を行いました。言葉足らずの説明ばかりでしたが、色々皆さんが話を広げてくださり助かりました。

今回の箇所で私が疑問に思ったのが、無有好醜の好と醜が対義語になっているというところでした。経典は醜に対して美を使わず好で表現されている、ここに深い意図はあるのか?と。話をしていますと、経典のなかで美という文字はでてくることが無い(全く無いかはわかりませんが)ようですね。では好には美というニュアンス、またはそれ以外の意味もあるのだろうかと話が進んでいきます。ここでゲストのH本さんから、経典の中に出てくる随形好の好の意味なども同じように使われているかも、という意見が。また、妙好人も好が使われているという発言などで好醜の話題が非常に深まった勉強会でした。

また、後の懇親会でいつものように盛り上がっていました。お開きになる前くらいでしたか、真宗の勉強会のあり方の話をしていたのが印象的でした。色々意見がある中で、「立派に生きる方法や感動的な話をして、そこで終わってしまっては哲学や道徳の勉強になってしまうだろう。経典や御聖教に還っていって初めて真宗の勉強となる。」というY間氏の意見が今私自身の問題として投げかけられたように思います。自分自身のいただきの裏づけ、説得力として経典・御聖教に訪ねていく学びができるかを今後の課題としてやっていきたいと思います。

資料作りは大変ですね、一日で仕上げるつもりだったんですが思考が停止して翌日に持ち越しました。次の日、近所の喫茶店でメニューが来る前に少しテキストを読んでいたら不思議と書きたいことがまとまっていきました。気分転換って大事なもんです。今まではスタバでノーパソ広げて作業している人を見たら缶コーヒーでも飲んどけばいいのにとか思っていましたが、そういう人たちを少し理解できたような気がします。

妙好人に一歩近づけたでしょうか(笑

第八回勉強会のお知らせ

八十八夜も過ぎ、穏やかな陽射しの日が続いています。みなさま、お変わりなくお過ごしでしょうか。

さて、光遠会の第八回目の勉強会の詳細は以下のとおりです。

日時: 2015/05/15(金), 18:00-20:00
場所: 難波別院 研修ホール北和室
範囲: 宮城顗『大無量寿経講義 二〇』(大地の会, 1998), 第八十講, pp. 89-112
発表者: 道谷 祐二さん

日程が14日(木)から15日(金)に変更になっている点、ご注意下さい。

今回もいつもと同じ別院の北和室にご集合ください。

それでは、みなさま、万障お繰り合わせの上ご参加くださいませ。

第7回勉強会を終えて。「蛸焼喩」

今回発表させていただいて、皆さまから率直な感想や意見また疑問もいただきました。そのひとつひとつに言葉足らずの説明しかできなかったのは皆さまに申し訳なかったと思っているところでございますm(_ _)m私の中でも整理がついていない証拠です。
今回のご意見の中で「歩み」と言うことが大きなテーマとして上がりました。このテーマが上がった理由として、私の発表の中で「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言うことを言い出したのがきっかけです。この発表を受けて皆さまから「深澤くんはもう既に歩んでいるように見える」とか「教えに出会い新たな視点で物事を見て人生を歩むことも歩みと言えるのではないか」などと言う意見をいただきました。おっしゃる通りだと思います。教えに出会い今までと違った視点と言うものを与えられた経験もございますし、そういう姿をご覧になられて既に歩んでいるように見えると仰られるのも納得できます。では何故私は「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言ったのか。この言葉で伝えたかったニュアンスをもう少し強めて言いかえるなら「教えを聞いた者の責務として教えを広めると言うことはない」と言う感じでしょうか。このようなことを座談で話していた時にSさんから「でもあれじゃない?美味したこ焼きを食べて、これ美味しいよって勧めるようなもんでしょ?」と言う喩えを出して下さいました。これはどう表現したらいいかわからなくなっていた私にとっては助け船でした。まさにその通りなんです!「これ美味しいよ」と勧めることはたこ焼きを出した店から強制させられることじゃないんです。それと同じように教えを聞いた者が教えを広める責務はないんです。たこ焼きを勧めるか勧めないかは本人の自由です。私の場合をこのたこ焼きの喩えに当てはめてみます。
縁ある人が美味しそうにたこ焼きを食べていて、それを見た私も食べてみたいなぁと思って食べてみたら美味しかったので、それ以降事あるごとにたこ焼きを食べていると言う感じです。「美味しいよ」と勧める表現力もない私はただたこ焼きを食べているだけです。
このたこ焼きを食べている姿を見て食べたいなぁと思う人がいてもいいですし、いなくてもいいんです。
「美味しいよ」と勧めることをしていない私は「教えを広める」と言う歩みはしていない。しかし美味しそうに食べていること自体が歩みならば歩んでると言っていいと思います。ここら辺のところで、今のところ自分の中では決着をつけてみました。

自分の気持ちを率直に言える場があり、それを聞いた人が率直に意見を返してくれる場があるということは大変貴重なことではないかなぁと思います。光遠会は私にとっては非常に楽しい勉強会です。

第七回勉強会のお知らせ

とてものどかな春のよい季節となりましたが、皆様お変わりございませんか。

さて、光遠会の第七回目の勉強会の詳細は以下のとおりです。

日時: 2015/04/07 (火), 18:00--20:00
場所: 難波別院 研修ホール北和室
範囲: 宮城顗『大無量寿経講義 二〇』(大地の会, 1998), 第七十九講, pp. 57-86
発表者: 深澤 雅文さん

今回もいつもと同じ別院の北和室にご集合ください。

それでは、みなさま、万障お繰り合わせの上ご参加くださいませ。