第八回勉強会のお知らせ

八十八夜も過ぎ、穏やかな陽射しの日が続いています。みなさま、お変わりなくお過ごしでしょうか。

さて、光遠会の第八回目の勉強会の詳細は以下のとおりです。

日時: 2015/05/15(金), 18:00-20:00
場所: 難波別院 研修ホール北和室
範囲: 宮城顗『大無量寿経講義 二〇』(大地の会, 1998), 第八十講, pp. 89-112
発表者: 道谷 祐二さん

日程が14日(木)から15日(金)に変更になっている点、ご注意下さい。

今回もいつもと同じ別院の北和室にご集合ください。

それでは、みなさま、万障お繰り合わせの上ご参加くださいませ。

第7回勉強会を終えて。「蛸焼喩」

今回発表させていただいて、皆さまから率直な感想や意見また疑問もいただきました。そのひとつひとつに言葉足らずの説明しかできなかったのは皆さまに申し訳なかったと思っているところでございますm(_ _)m私の中でも整理がついていない証拠です。
今回のご意見の中で「歩み」と言うことが大きなテーマとして上がりました。このテーマが上がった理由として、私の発表の中で「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言うことを言い出したのがきっかけです。この発表を受けて皆さまから「深澤くんはもう既に歩んでいるように見える」とか「教えに出会い新たな視点で物事を見て人生を歩むことも歩みと言えるのではないか」などと言う意見をいただきました。おっしゃる通りだと思います。教えに出会い今までと違った視点と言うものを与えられた経験もございますし、そういう姿をご覧になられて既に歩んでいるように見えると仰られるのも納得できます。では何故私は「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言ったのか。この言葉で伝えたかったニュアンスをもう少し強めて言いかえるなら「教えを聞いた者の責務として教えを広めると言うことはない」と言う感じでしょうか。このようなことを座談で話していた時にSさんから「でもあれじゃない?美味したこ焼きを食べて、これ美味しいよって勧めるようなもんでしょ?」と言う喩えを出して下さいました。これはどう表現したらいいかわからなくなっていた私にとっては助け船でした。まさにその通りなんです!「これ美味しいよ」と勧めることはたこ焼きを出した店から強制させられることじゃないんです。それと同じように教えを聞いた者が教えを広める責務はないんです。たこ焼きを勧めるか勧めないかは本人の自由です。私の場合をこのたこ焼きの喩えに当てはめてみます。
縁ある人が美味しそうにたこ焼きを食べていて、それを見た私も食べてみたいなぁと思って食べてみたら美味しかったので、それ以降事あるごとにたこ焼きを食べていると言う感じです。「美味しいよ」と勧める表現力もない私はただたこ焼きを食べているだけです。
このたこ焼きを食べている姿を見て食べたいなぁと思う人がいてもいいですし、いなくてもいいんです。
「美味しいよ」と勧めることをしていない私は「教えを広める」と言う歩みはしていない。しかし美味しそうに食べていること自体が歩みならば歩んでると言っていいと思います。ここら辺のところで、今のところ自分の中では決着をつけてみました。

自分の気持ちを率直に言える場があり、それを聞いた人が率直に意見を返してくれる場があるということは大変貴重なことではないかなぁと思います。光遠会は私にとっては非常に楽しい勉強会です。

第七回勉強会のお知らせ

とてものどかな春のよい季節となりましたが、皆様お変わりございませんか。

さて、光遠会の第七回目の勉強会の詳細は以下のとおりです。

日時: 2015/04/07 (火), 18:00--20:00
場所: 難波別院 研修ホール北和室
範囲: 宮城顗『大無量寿経講義 二〇』(大地の会, 1998), 第七十九講, pp. 57-86
発表者: 深澤 雅文さん

今回もいつもと同じ別院の北和室にご集合ください。

それでは、みなさま、万障お繰り合わせの上ご参加くださいませ。

第六回勉強会のお知らせ

春寒料峭のみぎり、まだまだ寒い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

さて、光遠会の第六回目の勉強会の詳細は以下のとおりです。

日時: 2015/03/05 (木), 18:00--20:00
場所: 難波別院 研修ホール北和室
範囲: 宮城顗『大無量寿経講義 二〇』(大地の会, 1998), 第七十八講, pp. 31--53
発表者: 佐藤 将太さん

今回もいつもと同じ別院の北和室にご集合ください。

それでは、みなさま、万障お繰り合わせの上ご参加くださいませ。

ダーゴナイト。

僧侶の私は7時に目を覚ました。

なにか変わったことがないかと思ってあたりを見渡したが、べつにどこにも異常はないようだった。とぼしい日光がまぶたに射し、毛布からはいだした手足のさきはひとかけらの冬がひっかかっている。灰皿には灰があり、壁には雨のしみがある。これはどう見ても光栄ではあるまい。念の為にと思って体を見たが、カブト虫になっている様子もなかった1。いつものようにひび割れた天上のしたに古綿と古毛布にくるまっておちているだけである。ダーゴナイト。

窓はゆがんでいる。時間と、颱風と、ときどきの軽い地震のためである。あけるとしまらなくなるし、しめるとあかなくなるから、しかたなしにしめたままほってある。私はふとんのなかから顔を上げ、その、平行四辺形の、小さなにごった空を眺めた。一軒目のお参りにはまだすこし時間がある。もうちょっとぐずぐずしていてもよい。キツネやカブト虫や壁になる運命をまぬがれて目をさますことができたのだから、いくらいそがしくてもちょっとは怠けてもいいだろう。小さなあくびを一つしてから灰皿をひきよせ、タバコに火を付けた。ダーゴナイト。

私は目を半眼に閉じてタバコを深々とふかしながら、さて今日は何曜日だったかなと思った。水曜日のようでもあるが、木曜日のようでもある。どこかそのあたりだ。よくわからない。だいたい週の七日のうちで、目がさめてすぐにそれとわかる日は三日ぐらいなものである。土曜と、日曜と、月曜である。あとはさっぱり見当がつかない。日附の方はどうかといえば、これはなにしろ三〇日もあるので、ますます境界があいまいになる。今日は二四日だったか、二五日だったか。これまた思い出せない。階下に向かって声をかければいますぐ答えは手に入るが、しかし知ったところで、べつにどうということもないのだから、むだである。やがて三〇分後には法衣に着替えた私は車に乗って、カーナビゲーションシステムに登録された予定表が一軒目のお家に連れて行ってくれる。そこでようやく今日が何日だったか理解するのだ。ダーゴナイト。

私はごろりと寝返りをうち、そのはずみに、ふと、何年かまえに読んだある芝居のせりふを思い出した。

「…人間は存在するのじゃない、存在すると思っているだけなんだ」

ちがったかな。

「いったい、この、おれというものは存在しているのか、いないのか。やれやれ。もうおれにはそれすらわからなくなってきたゾ」

ダーゴナイト。ダーゴナイト。

Footnotes:

1

フランツ・カフカの『変身』の青年グレーゴル・ザムザのように…