第7回勉強会を終えて。「蛸焼喩」

今回発表させていただいて、皆さまから率直な感想や意見また疑問もいただきました。そのひとつひとつに言葉足らずの説明しかできなかったのは皆さまに申し訳なかったと思っているところでございますm(_ _)m私の中でも整理がついていない証拠です。
今回のご意見の中で「歩み」と言うことが大きなテーマとして上がりました。このテーマが上がった理由として、私の発表の中で「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言うことを言い出したのがきっかけです。この発表を受けて皆さまから「深澤くんはもう既に歩んでいるように見える」とか「教えに出会い新たな視点で物事を見て人生を歩むことも歩みと言えるのではないか」などと言う意見をいただきました。おっしゃる通りだと思います。教えに出会い今までと違った視点と言うものを与えられた経験もございますし、そういう姿をご覧になられて既に歩んでいるように見えると仰られるのも納得できます。では何故私は「本願からの促しによって歩むと言うことが生まれない」と言ったのか。この言葉で伝えたかったニュアンスをもう少し強めて言いかえるなら「教えを聞いた者の責務として教えを広めると言うことはない」と言う感じでしょうか。このようなことを座談で話していた時にSさんから「でもあれじゃない?美味したこ焼きを食べて、これ美味しいよって勧めるようなもんでしょ?」と言う喩えを出して下さいました。これはどう表現したらいいかわからなくなっていた私にとっては助け船でした。まさにその通りなんです!「これ美味しいよ」と勧めることはたこ焼きを出した店から強制させられることじゃないんです。それと同じように教えを聞いた者が教えを広める責務はないんです。たこ焼きを勧めるか勧めないかは本人の自由です。私の場合をこのたこ焼きの喩えに当てはめてみます。
縁ある人が美味しそうにたこ焼きを食べていて、それを見た私も食べてみたいなぁと思って食べてみたら美味しかったので、それ以降事あるごとにたこ焼きを食べていると言う感じです。「美味しいよ」と勧める表現力もない私はただたこ焼きを食べているだけです。
このたこ焼きを食べている姿を見て食べたいなぁと思う人がいてもいいですし、いなくてもいいんです。
「美味しいよ」と勧めることをしていない私は「教えを広める」と言う歩みはしていない。しかし美味しそうに食べていること自体が歩みならば歩んでると言っていいと思います。ここら辺のところで、今のところ自分の中では決着をつけてみました。

自分の気持ちを率直に言える場があり、それを聞いた人が率直に意見を返してくれる場があるということは大変貴重なことではないかなぁと思います。光遠会は私にとっては非常に楽しい勉強会です。

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