第11回勉強会の感想など

みなさん、お元気ですか。安間です。勉強会を終えてのブログ記事を書いておこうと思います。

光遠会も早いものでもうすぐで一年目を迎えようとしています。私がこうした勉強会がどうしても必要だと感じる理由は、第一にはもちろん、教学の勉強を継続するということもありますが、なにより、気のあった仲間と、僧侶として生きていく上で日々感じていることを、教学上のことであれ、個々人の悩みであれ気づきであれ、それらを共有する場が是否とも必要だと感じるからです。会のメンバーそれぞれは、それぞれの生活があり、それぞれの考えがあり、興味の対象も悩みの内容も日々の体験も異なるでしょうけれども、僧侶という共通項でこうして集まって、それぞれのその瞬間の思いを共有することで、個人だけでとどまっていては到底思いも至らなかったような思考の筋道が生まれ、新鮮な空気が注ぎ込まれるように感じます。時に個人の中に篭って思考を熟成させることも大事、しかし、時にそうした熟成された思考を他者と共有させることも必要で、そうしたバランスが大事なのだと感じます。

さて、前回の勉強会は私の発表だったのですが、当日もお話した通り、この輪読している宮城先生のテキスト (PDF) を読むには二重の難しさがあります。まず第一に内容。これは読んだ方はお分かりになると思いますが、大経の内容に即して、非常に広範囲の教学上の問題が扱われていますので、新しい知識として読む側はその吸収に苦心します。しかし、それ以上に難しいのは、このテキストが講義録であること。すなわち、口頭による講義の内容が文字に起こされたものであるので、文語体のような統一された文章としては読めません。しばしば書かれてあることが大経の願文というテーマから大きく外れて、そこに一貫した主題を読み取ることが困難なことがあります。講義中に枝分かれする様々な話題の中から、幹の大きなテーマを見失わず追うことに、他のテキストを読むことにはない難しさがあるように感じます。

そうした二重の難しさのあるテキストですが、講義録であるがゆえに、そのテキストを声を出して輪読することは、あたかも先生の思考を追体験するような楽しさがあるように感じます。あたかも、声に出して読んでいるそれぞれが、辿々しくも宮城先生になりきって大衆を前に講義しているような、そうしたコミカルな (?) 錯覚さえ覚えます。これは、個人で読書していては味わえない楽しみです。

さて、今回の学習会では、Fさん がお話してくれた「ワンピースの内容を知ることも大事なんじゃないか」という意見によって、議論が広がりました。彼いわく、良き僧侶たらんとする限り、どうしても知的な話題を語ることに惹かれてしまうけれども、最近、今まで自分が偏見によって切り捨てていた漫画などの内容を知ることも必要ではないかと思い始めた、と。

私は Fさん の意見には大いに同意できて、自分の触手が伸びうる範囲には偏見に左右されず柔軟に取り入れることが大事だと考えています。こうしたFさんの意見を受けて、私は勉強会中に、仏教の「五明処」のことを話題に上げ、菩薩もまた仏教だけのことに通じていては駄目で、世間一般の広範囲の知識に通じている必要があった、というような話をしたように思います。「五明」とは、大乗の菩薩が身に付けるべき五つの学問のことで、声明 (文法学)・工巧明 (工学)・医方明 (医学)・因明 (論理学)・内明 (仏教学) の五つの学問です。衆生を救済するためには、いろいろな事を知っていなければならない。お経の中には、痔の治し方が説かれた『療痔病経』なんてものもあり、菩薩たるもの痔で苦しむ衆生もちゃんと救わなければならないわけです^^;

ことほどさように、仏教の僧侶たるものはあらゆる学問から世事に至るまで広範囲の知識に通じてなきゃならない、そんな話をしたように思います。

勉強会が終わり、この「五明処」の話は少し言葉足らずだったかな、と反省しました。それは、こうした「仏教徒たるもの衆生救済のため広範囲の知識を身に付ける必要がある」というような意見は、大乗菩薩精神として仏教的ではあっても真宗的ではない、という意見を持つ方がいるかな、という反省でした。真宗の仏道は、難行道ではなく易行道、聖道門ではなく淨土門、ですので、こうしたストイックな聖者の道に抵抗を感じる方もいらっしゃるかな、と感じたわけです。

しかし、広範囲の知識の獲得ということは、真宗の仏道にもパラドキシカルに当てはまります。いや、真宗の仏道にこそ真に当てはまるようにさえ思います。

それは、淨土真宗では「凡夫の自覚」ということがキモに置かれるからです。浄土真宗の核は「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し…」という「機の深信」です。真宗における信の要は、自己が無知蒙昧なる凡夫であるという自覚にあります。こうした自己に対する徹底した凡夫の自覚が起こる時、知識に対する態度も変わります。自己がなにも知っていないという自覚があるからこそ、謙虚な態度で知識を吸収しようとする姿勢が生まれるのだと思います。自己が空っぽだからこそ、そこに何かが入るスペースが生まれる。あたかも、乾いたスポンジが水を吸収するかのように。だから、真宗の仏道を歩む者は、自己に深い深い無知への自覚があるからこそ、無限大の知識の宝庫に手を伸ばす器の大きさがある。そういうことが言えるんじゃないかと思うわけです。

いかに自分が分別というものでがんじがらめになっているか。そして、そうした分別を取っ払ったとき、いかに自分はからっぽか。からっぽの私のちからのなんと無功なことか。自分には何もわからない。そうしたところに、一切のことを如来におあずけするという信が起こる。そうした信を根底に据え、さらに学び、また無知を思い知らされ、またさらに学んでいく。そういうことが起こってくるんじゃないかと思います。

蓮如上人はかつて「王法をもて本とし、仁義をもてさきとして、世間通途の儀に順じて、当流の安心をば内心にふかくたくはへて…」(『御文』) と述べられました。ここに言う「王法」とは世俗の事柄であり、広く一般に通ずる知識のことと言って良いと思います。この蓮如上人の「王法為本説」は在家主義の真宗における仏法と王法の両輪論の文脈で論じられることが多いですが、蓮如上人は「当流の安心をば内心にふかくたくはへて」と書いておられる。すなわち、自力無功の果てに絶対他力の信を得て、その上で、「王法をもて本とし」と述べておられるのです。如来の信に支えられて、空っぽの自己が明るみに出され、スポンジのような自己は水のように世俗の知識を吸収する。こうした世俗の知識への態度を、蓮如上人の文章から読み取ることもできます。

清沢先生は、「宗教的信念」を得た後には、道徳を守っても、知識を求めても、政治に関係しても、商売しても、漁猟をしても、親孝行しても、愛国しても、工業しても、農業してもよい、と述べておられる。宗教的信念を得た人、如来の信によって安心を深くふところに蓄える者にとっては、仏教というのは日常あらゆる場面に、なにをしようとあらわれてくる。

仏教は日用の処、穿衣喫飯の処、撤屎放尿の処、行住坐臥の処に在り。

と書いておられます (清沢満之『宗教的信念の必須条件』)。

「穿衣喫飯の処」とは着物を着て食事をするところ、「撤屎放尿の処」とは便所へ行って用をたすところのことです。いわんやワンピースの漫画に於いてをや。真宗の仏道に生きる者、信に生きる者には、いかなるところにも仏教はあらわれてくる。汝、豈に己が分別を以て学処を簡別せんことあらんや。天眼・天耳という無限に耳目を開明するという大経の願文から、広く一般知識に通じることに話が及び、上来のようなことを感じ考えさせられた勉強会でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください