学習会の補足 —「自信」について—

先日2月20日に第27回目の学習会が行われました。今回は本願の第15願「眷屬長寿」についての講義 (第98講) でした。第14願「声聞無数」からの流れで、この「眷屬長寿」の願は、「声聞に志願を回復する」という意味を持つと講義されます。そして、15願の眼目が「除其本願 修短自在」であることが強調され、第2願の「寿終之後」という語との、また第22願の還相廻向の願との、それぞれ呼応関係が指摘されました。

座談の中で今回の発表者から「自信」についての解説が腑に落ちない、どう考えていいのかわからない、という意見が出て、参加者で議論を深めました。その中で、私は聖典において「自信」ということを考えるときには、まずは、「自身は現にこれ….出離の縁あることなき」身として深く信ずる(聖典, p. 215) という「機の深信」という視点をおさえておくべきではないか、ということを指摘しました。宗祖は『愚禿鈔』の七つの深信の一番目で「決定して自身を深信する」と述べておられますが (聖典, p. 440)、その「深信自身」ということと、その機と呼応した「深信乗彼願力」いうことが、他者との比較による優越感に基づく「自信」とはその根本を異とする、劣等感のままそのままを引き受けていく他力信心を核とした「自信」である、と考えることができるのではないかと思います。

学習会ではあまり詳しく触れる時間がなかったのですが、私がこう述べたのは、実は曽我量深先生の文章が頭にあったからで、それを補足としてここに残しておこうと思います。曽我先生は、

劣等感をもっているということから救われるということが機の深信の本当の意味ではないかと、こう私は思う。

と述べられた上で、次のように「自己を信ずる」ということについて述べられています。

自己を信ずるということは…無条件に自分を信ずるのである。…このいかんともしがたい罪悪生死の凡夫だというところに安住したのである。…自分に何の値打ちもないということになると、われわれは自暴自棄になるが、自分に何の取り柄もないところに立つものは自暴自棄しようがない。本当に取り柄がないということによって、いよいよそこに何か不動のものを有しているのである。そこに何か動かない自分の安住の場所がある ((『選集』12, p. 13)。

「機の深信」と聞くと、「罪悪生死の凡夫」の自覚を深め、いよいよ自己の劣等感を掘り下げていくというようなことをイメージしてしまいますが、実は「機の深信」とは劣等感からの救いに他ならない、と述べられます。機をいよいよ深く自覚することで、そこに如来の妙用に照らされる安住なる不動な場所が見出される。如来を介して自己に更 (かえ) り、自己を深く信じて今のこの身・この処に立つ。身はあたかも虚空に等しくして、心は浄土に遊び、罪悪生死なる衆生の性を尽くす (「尽衆生性」)。そして、そうした「自信」に立った真の生命は、他をもまた深く信ぜしめ (「自信教人信」)、その生命へと触れえた他者へとまた波及していく (「真の生命は波及する」) ということもまた言えるのだと思います。

先程、Web を見ていたら以下のページがあらためて大変参考になったので、ここに最後にメモしておこうと思います。

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